岡本柳之助(読み)おかもとりゅうのすけ

改訂新版 世界大百科事典 「岡本柳之助」の意味・わかりやすい解説

岡本柳之助 (おかもとりゅうのすけ)
生没年:1852-1912(嘉永5-大正1)

明治時代の軍人和歌山藩士,本姓諏訪,岡本鑅之進の養子。和歌山藩の砲兵大隊長をつとめ,廃藩後,陸奥宗光らの推薦で陸軍省に出仕西南戦争には大阪鎮台参謀として参戦した。1878年近衛砲兵の暴動竹橋事件)が起こったとき,東京鎮台予備砲兵第1大隊長の地位にあり,暴動を予知しながら上部へ報告もせず説諭もあいまいであるなど謎めいた行動をとったが,そのとがで奪官の刑に処せられた。後年,陸奥の推挙で朝鮮の宮内府顧問となり,日清戦争後の95年10月,王妃閔妃(びんひ)殺害事件に参画,投獄されたが証拠不十分で免訴。のち大陸浪人として暮らし,辛亥革命に際し上海に渡ったが,そこで客死した。
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朝日日本歴史人物事典 「岡本柳之助」の解説

岡本柳之助

没年:明治45.5.14(1912)
生年嘉永5.8.14(1852.9.27)
明治期の陸軍軍人。和歌山(紀州)藩士諏訪新右衛門の子として江戸に生まれる。幼時に岡本家に養子入り。明治7(1874)年陸軍大尉となり,西南戦争後,少佐に進んだが,11年の竹橋騒動時に主謀者として捕らえられ官職剥奪。浪人したのち,朝鮮の政治家金玉均との親交を深め,27年朝鮮に渡る。翌年閔妃暗殺を朝鮮公使三浦梧楼と共に指揮,その後も大陸浪人として活動,上海で死去した。東光と号す。<参考文献>黒竜会編『東亜先覚志士記伝』下,角田房子『閔妃暗殺』

(山村義照)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「岡本柳之助」の解説

岡本柳之助 おかもと-りゅうのすけ

1852-1912 明治時代の軍人,大陸浪人。
嘉永(かえい)5年8月生まれ。幕府の砲兵練習所にまなび,維新後陸軍にはいって西南戦争では参謀。陸軍少佐。明治11年竹橋事件で首謀者とうたがわれ官職をうしなう。28年朝鮮での閔妃(ミンビ)暗殺事件にくわわり投獄される。44年辛亥(しんがい)革命勃発(ぼっぱつ)の際上海におもむいたが,その地で明治45年5月14日死去。61歳。江戸出身。本姓は諏訪。

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367日誕生日大事典 「岡本柳之助」の解説

岡本 柳之助 (おかもと りゅうのすけ)

生年月日:1852年8月14日
明治時代の陸軍軍人。少佐
1912年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の岡本柳之助の言及

【閔妃】より


[閔妃虐殺事件]
 1895年,日本公使三浦梧楼の指揮により日本軍人・大陸浪人らの手で閔妃が殺害された事件。三国干渉を契機として復活した閔氏政権の排日政策に対抗して勢力挽回を図った三浦は,10月8日早朝,ソウル駐在の日本守備隊および岡本柳之助安達謙蔵ら日本人壮士のグループに命じて景福宮を襲撃させた。宮殿内に乱入した彼らは閔妃を斬殺して奥庭にひきずり出し,死体を凌辱したうえ石油をかけて焼き払い,これと同時に,大院君をかつぎ出して金弘集を首班とする親日開化派政権を成立させた。…

※「岡本柳之助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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